日本のジュエリー①~明治・大正時代の上流階級の人々とジュエリー~
皆様、こんにちは!ヤマトヤ本部の青嶋 純佳です。
先日、美術館の展示会で「ねじ梅」や「菊爪」など、大正時代の指輪を見かけました。
ティファニー、カルティエ、ブルガリ……名だたる名ブランドのハイジュエリーが市場に出ているため、「ジュエリーといえば欧米が本場」というイメージが強いのですが、「ねじ梅」や「菊爪」は日本人が生み出したデザインです。
第二次世界大戦により、ジュエリーの製造技術や明治・大正・昭和初期の宝飾品が戦火によって失われました。明治~昭和にかけて彫金師たちが洗練された技術をいかんなく発揮し、日本人ならではの美意識に支えられたジュエリーの時代は、先の大戦により幻のように去ってしまいました。
今となっては忘れられがちですが、戦前、日本独自のジュエリーがまばゆい輝きを放っていた時代が確かに存在していました。
(※あんまりキレイではないイラストで申し訳ありません。「ねじ梅」の典型的なデザインはこのようなもの。立て爪の一種で、中央にはダイヤモンドや真珠がセッティングされました)
皇族や上流社会の人々とジュエリー(明治・大正時代)
”金剛石もみがかずば 珠のひかりはそわざらん
人もまた美手のちにこそ まことの徳はあらわるれ”
(どのようなダイヤモンドでも磨かなければ美しく輝くことはないのです。
人も学ぶことではじめて真の徳を得ることができるのです)
こちらの歌は、明治時代に昭憲皇太后がお詠みになった御歌の冒頭部分です。明治20年に家族の女学校である「女子学習院」へ下賜されました。西洋から流入してまもない時期にダイヤモンド(金剛石)はすでに皇族の御歌に登場していたのです。
幕末は浮世絵に描かれた女性がファッションアイコンとなることが多かったのですが、明治時代に入ると浮世絵は写真や油絵に、女性は皇族や上流階級へと変遷します。
明治16年に竣工した鹿鳴館(ろくめいかん)では、井上外務大臣の夫人・武子がパリで購入したという1カラットの指輪を夜な夜な着用して、周囲から賞賛されました。
明治初期、明治政府は洋装化を推し進め、皇族が公の場で着用するジュエリーを欧州から取り寄せていました。中でも明治20年に取り寄せた皇后用のティアラとサン連のダイヤモンド・リヴィエール(プロイセン王国より届けられる)は、現在まで継承されています。
皇族が公の場で着用するジュエリーは、イギリス、フランス、プロイセン(現・ドイツ)等、欧州から取り寄せていました。中でも明治20年に取り寄せた皇后用のティアラとサン連のダイヤモンド・リヴィエール(プロイセン王国より届けられる)は、現在まで継承されています。
この、「皇族のジュエリーは欧州から取り寄せる」という潮流が変わったのは大正時代に入ってからです。大正13年に裕仁親王(昭和天皇)のご婚礼の際、妃殿下用ティアラ、首飾りなどを納めたのは御木本真珠店(現・ミキモト)でした。これが、欧州の輸入品一辺倒だった皇室のジュエリーを日本の宝飾店が手掛けるきっかけとなりました。
前出の御歌を詠まれた昭憲皇太后。
こちらのイラストは、写真や油絵にもなっている有名な肖像。ティアラ、ダイヤモンドのリヴィエール、そして手元にはブレスレットを着用されています(ブレスレットは写真で見切れてしまっていますが)